衣387唐津街道

衣387唐津街道

林芙美子文学賞応募作品から、はみ出して応募出来ない作品のようなものになってしまったので、えほん大賞を取りたいので、えほん大賞参考文献に変更

賞金も100万円から50万円に半減するけど頑張るぞー!

それで

お墓参りの話書いてたら

唐津街道調べ出した

 

JR筑肥線 深江から大入に行くはずが、めったに来ない快速列車が丁度来て乗ったら、次は浜崎のアナウンス

乗るときに快速とか言ってよとか思ったけど後の祭り

浜崎駅は改装中で工事現場のお話もありますが、唐津街道から

 

唐津街道 ウィキペディア

昔の地名と現在と比べたり

唐津の貿易 経済問題考えたり

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%B4%A5%E8%A1%97%E9%81%93

 

唐津は昔、石炭の積出港で唐津焼がある。

伊万里も石炭の積出港で伊万里焼がある。

https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E6%B4%A5%E5%B8%82-47183

唐津〔市〕
からつ
佐賀県北部に位置する市。玄界灘に浮かぶ小川島,加唐島神集島加部島,馬渡島などと,唐津湾の高島などを含む。東松浦半島の大部分を占め,南域を筑紫山地が囲む。1932年市制。1941年佐志町,1954年鏡村,久里村,鬼塚村,湊村の 4村,1958年切木村の一部をそれぞれ編入。2005年相知町,北波多村,厳木町鎮西町浜玉町肥前町呼子町の 6町 1村と合体。2006年七山村を編入中心市街地の唐津は古来朝鮮半島への要津で,唐津の名は韓津にちなむ。慶長7(1602)年唐津藩主の寺沢広高が築城。舞鶴公園は旧本丸の跡。唐津港は唐津炭田の開発が進むにつれ石炭積出港として脚光を浴び,1889年特別輸出港に指定。初め松浦川の河口にあったが,1905年大型船舶の停泊に便利な西唐津に移転。1958年頃から石炭産業の不況に伴い唐津港を中心とする臨海工業地帯の建設が進められ,1967年九州電力佐賀火力発電所が操業を開始。醸造(味噌,醤油),工作機械,水産加工,土建材料などの工業が興った。なお桃山時代以来の伝統をもつ唐津焼の特産がある。市域には国の特別名勝虹ノ松原特別史跡名護屋城跡および陣跡をはじめ,眺望に優れる鏡山,国の天然記念物である屋形石の七ツ釜,国指定史跡の谷口古墳,菜畑遺跡など名所旧跡が多い。唐津くんちの曳山行事は国の重要無形民俗文化財に指定されており,2016年に「山・鉾・屋台行事」の一つとして国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界無形遺産に登録された。島嶼部を含めた北部は玄海国定公園に,また一部で八幡岳県立自然公園,天山県立自然公園,脊振北山県立自然公園にそれぞれ属する。JR唐津線筑肥線国道202号線,203号線,207号線,204号線,323号線が通じる。面積 487.58km2。人口 12万2785(2015)。

唐津藩の小笠原さんは福島県の人?

 

https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E6%B4%A5%E8%97%A9-47191

唐津藩
からつはん
肥前国松浦(まつら)(佐賀県唐津市)に置かれた藩。藩主は寺沢氏以外は譜代(ふだい)。1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉は波多(はた)氏の旧領上松浦(かみまつら)地方を安堵(あんど)したが、1593年(文禄2)これを没収、跡地6万3000余石は寺沢広高(ひろたか)に与えられた。寺沢氏は薩摩(さつま)国(鹿児島県)出水(いずみ)郡にも2万石を領していたが、のちに関ヶ原の戦いの論功として天草(あまくさ)4万石を加増され、1614年(慶長19)には、筑前(ちくぜん)(福岡県)怡土(いと)郡と出水郡の領地を交換して、松浦・天草・怡土3郡に12万3000石を領する大名となった。1616年(元和2)の総検地で、15万0700余石の石高となった。1637年(寛永14)の島原の乱後、天草の所領を没収され、また1644年(正保1)藩主堅高(かたたか)の自殺により無嗣(むし)絶家となり、所領は一時幕領となった。その後1649年(慶安2)に大久保忠職(ただもと)(譜代)が播磨(はりま)(兵庫県)明石(あかし)から入部し、8万3000石を領して新たに立藩した。1674年(延宝2)には庄屋(しょうや)の転村制を実施するなど農政に変化があったが、1678年2代忠朝(ただとも)は下総(しもうさ)(千葉県)佐倉に移封、かわって同地から松平乗久(のりひさ)が入部して7万石を領した。松平氏は乗春(のりはる)、乗邑(のりむら)と続いたが、1691年(元禄4)志摩(三重県)鳥羽(とば)に移り、同地より土井利益(とします)が入部した。土井氏による唐津藩統治は80余年に及び、この間、儒学者吉武(よしたけ)法命を招くなど郷塾を盛んに興したりしたが、1762年(宝暦12)下総(茨城県)古河(こが)に転封した。土井氏のあと、三河(愛知県)岡崎領主の水野忠任(ただとう)が継いで6万石を領したが、忠邦(ただくに)の代に1万石を幕府に献上、1817年(文化14)遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松に転封し、小笠原長昌(おがさわらながまさ)が陸奥(むつ)(福島県)棚倉(たなぐら)から入部、以後、明治に至るまで小笠原氏が統治した。1871年(明治4)廃藩、唐津伊万里(いまり)・佐賀・三瀦(みつま)・長崎の各県を経て、1883年再置の佐賀県編入

[長野 暹]

『『唐津市史』(1962・唐津市