衣533「人類最年長」

衣533「人類最年長」

昔の話を読んで、現代の問題を考えてます。

 

七歳の時、江戸は東京と呼び名が変わり、遷都が決まった。

トーキョーではなく、トーケイと当時の人々はいっていた。眉を剃り、お歯黒をしている人々

(昔は女性は子供を産むので歯が弱くなるからお歯黒してて、歯科にもいかず歯が丈夫だったらしい、うらやましい話です。)

とは縁の薄い横浜の人は、天皇が京都を離れ、江戸城の新しい主になると聞いて、こんなことをいっていた。

 

-天皇ってのはいるのかいないのかわからなかったが、どうやら本当にいるらしいね。

最後の将軍の在位わずか二年にして元号は明治に改まり、維新の志士たちも、新選組も、白虎隊も続々、消えていった。

鳥羽伏見、江戸の内戦に勝った新政府軍は江戸や横浜を占領し、我が物顔で振る舞い出した。

 

彼らのザンギリ頭を見て、私は新しい時代が始まったことを察した。

東北では奥羽越列藩同盟輪王寺宮を戴き、東北朝廷を樹立しようとし、榎本武揚は函館五稜郭に立てこもり、北海道に共和国を建国しようとしたが、どちらも平定された。

父は元々会津出身で、同郷の人間が幕府に見限られ、内戦でバタバタ死んでゆくのを黙って見ているしかなかった自分を恥じていた。

せめて東北に別の国ができたら、そちらに移住し、罪滅ぼしをしたいと思っていたが、それも叶わなかった。

切腹、帯刀、浪人が禁じられ、用済みとなったサムライは転職を余儀なくされた。父が務めている神奈川奉行所は幕府から新政府に引き渡され、神奈川府、その後すぐ神川県と名前を変えた。

運上所の業務は同じだったが、倒幕派足軽たちが幅を利かせるようになった職場の居心地が悪く、父はこれを機に役人を辞め、私が運勢を見たもらった高島嘉右衛門の元で事務職を得た。

材木問屋の嘉右衛門は資材を船で運ぶ関係上、海運に長けていたが、これからは陸上の交通が主流になると見て、居留地にほど近い入り江を埋め立て、横浜停車場を建設する仕事を始めた。

現在の桜木町である。

父は嘉右衛門の秘書として、またイギリス人の鉄道技術者と日本の職人のあいだの調整役として働くようになった。

私は一か月ほど円満寺寺子屋に通っていたが、そこの和尚は偏屈で、煉瓦作りの洋館を見ると、寿命が縮まるといって、その前を通る時は頬被りをし、盲人のように誰かに手を引いてもらっていた。

そういう骨の髄まて江戸趣味の人を巷では「天保老人」と呼んでいたが、和尚もその典型で、辻説法で眉唾の風説を垂れ流していた。

曰く、牛肉を食うと、かんしゃく持ちになる、ランプを灯すと、やぶにらみになる、靴を履くと、指の股が腐る、新聞を読むと、インクの毒が回り、バカになる、病院に行くと、早死にする、といった具合である。

その説法を真に受ける人はいなかったが、笑いこける人も少なからずいたから、あざ笑いながら、大いに共感していたのだろう。