衣653-1クリミア戦争からセポイの反乱

衣653-1クリミア戦争からセポイの反乱

古くからロシアは

地中海への出口をもとめる南下政策すすめる。

1853年

ギリシャ正教を信仰する

ロシアの皇帝ニコライ1世

トルコ領内のギリシャ正教徒を保護することを口実に、この年トルコと戦いはじめる。

 

ロシアの地中海進出をおそれたイギリスはフランスとともにトルコをたすけ、艦隊を黒海におくる。

 

イギリス・フランスなど連合艦隊は、

クリミア半島に上陸。

(クリミア半島ってクリム半島のこと?私の持っている地図帳ではクリム半島しかない?!ロシアとウクライナの間でウクライナです)

 

ロシア側の砦セバストーポリは、

1855年9月

連合軍の手におち、

1856年

パリ条約が結ばれる。

 

この戦争中、

イギリスのナイチンゲール

数十名の看護婦とともに参加

敵味方の区別をしないで、

きづつき、病気になった兵士の看護に努力。

国際赤十字社がつくられるもととなる。

 

↑の戦争でイギリス兵士は疲れていたと思う。

1857年

インドでセポイの反乱

イギリス採用 新式銃 弾薬筒 一部分にグリース(油)ぬる必要。

動物の脂肪

 

セポイヒンズー教徒 聖なる牛の脂肪

セポイイスラム教徒 コーランで禁じられている豚の脂肪

を主張

 

新式銃使う事をこばむ

 

こうしてセポイ 反乱

農民、土豪も合流

反乱軍 ムガル帝国の皇帝おしたてる

 

イギリスが本国からおくった軍隊に鎮圧された。

1858年 ムガル帝国はほろぼされた。

 

インドの人は銃を使わなかったために、すぐに負けたのでは?

でも犠牲者か少なくて良かったかも?

よくわかりません。

亡くなられた方のご冥福をお祈りします。