衣791じゃがたらお春

衣791じゃがたらお春

ゴッホのじゃがいもを食べる人々が

何で代表作なのか?

イマイチ理解できなくて

じゃがいもの事、考えてたら

じゃがたらお春

っていたなあ?

も思い出した!

 

じゃがたらお春  ウィキペディアより↓

 

じゃがたら

 

冒頭の通り、追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に 西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして歌謡曲「長崎物語」も作られた。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者大槻玄沢は「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。古詩を交えて書かれるなど、少女が書いたにしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている[1]。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており、「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。

謡曲 長崎物語

 

歌はネットでは沢山の有名歌手が歌ってあります。美空ひばりさんとか二葉百合子さんとか

歌 由利あけみ

作詞:梅木 三郎

作曲:佐々木俊一

赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の
ああ 鐘が鳴る ララ 鐘が鳴る

坂の長崎 石路 (いしだたみ)
南京煙火(なんきんはなび)に日が暮れて
そぞろ恋しい出島の沖に
母の精霊が
ああ 流れ行く ララ 流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえつくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルス
ああ 鐘が鳴る ララ 鐘が鳴る