衣844関係 朱子学的支配の犠牲は女性
朱子学では「宇宙快感=仁」を「公」と規定
宇宙の理と一体化しない「個人快感」は「私」としてこれを徹底的に蔑視し糾弾
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E7%8F%AD-150069
両班(読み)やんばん
村の庶民層の女
両班の「宇宙快感」無視
つまり理から逸脱して「情としての気」そのものに生きる
被抑圧者とは思えぬほど底抜けに明るく力強く、快楽的
(オールナイトニッポンの中島みゆきさんみたいかなあ)
しかし変わり者の女
両班の理から逸脱したほんぽうな情の世界や、理に服属した従順な情の世界に遊ぶことを毛嫌いしている。
思い詰めたような表情でひとり畦や橋を歩いている。
村の多数派である明朗で多情な女たちは
「見ててごらん、マルブンはいまにきっと狂うよ」
ひそひそ語る。
マルブン、脱兎のごとく、走り出して、畑の脇で素っ裸になり山に入って鏡や銀刀を探したりと不可解な行動
マルブンはシャーマンになる。
シャーマンはシャマンでありました↓
彼女は、天の理を両班という身分の男がひとりじめすることを許さない女
儒教の天理とは異なる、もうひとつの天のことわりがあることを、シャーマンとして実践。
「もうひとつの宇宙快感」
四書五経ではなく天の神霊を直接自分の体に受け入れることによって、雷電に打たれて卒倒するかのような劇的快楽を実践。
朝鮮の儒教的社会システムにおいてシャーマンは「賤民」にカテゴライズされ、村人たちから極度に軽蔑される。
だが村の快活な女たちは、その快活性の裏側に実は抑圧された行き場のない黒い感情(これを恨(ハン)という)を持っており、その開放を願ってシャーマンのもとに通う。
そこで口寄せの先祖の声を聞き、激烈なダンスの巫儀(ふぎ)(クッという)に参加して泣きながら黒い感情を開放。
不浄視されたマルブンのところには、村の女たちが集うようになる。
かくして朝鮮の村は、両班とそれを、取り囲む男たちの「宇宙快感」の磁場と、シャーマンとそれを取り囲む女たちの「天霊快感」の磁場ときれいに分離。
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恨(ハン) ウィキペディアより↓
金大中哲學與對話集
——建設和平與民主』のなかで、以下のように述べている[5]。
韓国の文化は「恨」の文化です。私たちの民族は憂患と苦難の民族であり、「恨」は挫折を味わった民族の希望、「恨」は挫折を味わった民族の夢を実現するための準備なのだと思います。確かに私たちは、歴史のなかで「恨」とともに生きてきたことは事実です。…しかし、常に自分自身を慰め、励まし、その結果、未来に向かって生きていくことができた。私たちの民族は、畑の雑草のように、踏みつけられ、そして蘇る。 …韓国人は2000年間、文化的アイデンティティを捨てなかった。…韓国人は、大きな苦難に耐え、あらゆる方法で忍耐してきた。
」
『金正日和朝鮮統一之日』(平壌外文出版社)の著者である金明哲は、「『恨』とは、表現されずに溜め込まれた感情、恨み、つらみ、自責の念、そして日常の言葉で言えば『悲哀』を意味する。…社会的抑圧によって塞がれた挫折感、鬱屈した感情が存在し続ける限り、『恨』もまた存在し続ける」と説明する[5]。
邵毅平(復旦大学)は、「恨」とは、要するに弱者の哲学、内向性の哲学であり、個人・国家が「恨」をかき集めることで、強者に抵抗する勇気を見出そうとしたものであり、「恨」を通じて、近隣の大国である中国と日本の圧力に抵抗しようとした、と指摘している[5]。