衣323ヘルマン・ヘッセ

衣323ヘルマン・ヘッセ

「霧の中」

ひとりぼっち

の詩を久しぶりに読んでみた

 

霧の中をさすらうのは不思議!

生きるとは 孤独でいること

誰も 他人を知らない

それぞれが ひとりぼっち

 

あらためて、ヘルマン・ヘッセ

と思ってウィキペディアみると

不思議!

 

写真がちょっとダリっぽくもある(逆さまのヒゲはやしたらダリ?)

ノーベル文学賞受賞してあります、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%BB

 

ヘルマン・ヘッセ

スイスの作家

ヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日)は、ドイツ生まれのスイスの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。

 

受賞年:1946年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:「古典的な博愛家の理想と上質な文章を例示する、大胆さと洞察の中で育まれた豊かな筆業に対して」[1]

 

南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多い。また、ヘッセは、風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。

人生、山あり谷あり、

私レベルじゃ読めない生涯を送ってあるような?↓『ガラス玉演戯』が読んでみたい、最近、疑り深くてすみません、

生涯

1877年にドイツ南部ヴュルテンベルク王国のカルフに生まれる。

ヘッセ家は、エストニアのバルト・ドイツ人の家系である。ヘッセの父親は、その名をカール・オットー・ヨハネスといい、スイス・バーゼルの宣教師であった。カールは、ヘッセの祖父カール・ヘルマン・ヘッセと祖母イェニー・ラスとの間に生まれた五男であった。そして、カールは、インド生まれのマリー・グンデルト(ドイツ系スイス人の宣教師ヘルマン・グンデルトの娘で、母方の従弟にヴィルヘルム・グンデルトがいる)との間に4人の子供をもうけた。ヘルマンは、その2人目の子供である[3]。

1881年に両親は布教雑誌の編集のために、バーゼルの伝道館に招かれる。ヘッセは活発な子供で、4歳頃から詩を作っていた[4]。1886年に母方の祖父のいるカルフに戻る。難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロンの神学校に入学する。しかし、半年で脱走してしまう。ヘッセは、両親の知り合いの牧師から悪魔払いを受けるが、効果はなかった。その後、ヘッセは、自殺未遂を図ったため、シュテッテン神経科病院に入院する。退院後に、ヘッセは、カンシュタットのギムナジウムに入学するが、その学校も退学してしまう。それから、本屋の見習い店員となるが、3日で脱走する。当時の経験は、『車輪の下』の原体験となっていると言われる。

その後、さまざまな職に就きながら作品を執筆し、1895年からはテュービンゲンのヘッケンハウアー書店の店員として働く。これはヘッセが作家として成功を収めてから有名になり、店にはヘッセの作品のコーナーが作られた。1896年にウィーンの雑誌に投稿した「マドンナ」という詩が掲載された。1899年に最初の詩集『ロマン的な歌』を自費出版。1904年、27歳のときに、ヘッセは、マリア・ベルニリという女性と結婚し、次男のハイナー・ヘルマンを含む3人の子供をもうける。この頃のヘッセの作品は、ノスタルジックな雰囲気の漂う牧歌的な作品が多い。これらの作品が描く世界は、ある意味では、一つの価値観に基づいた予定調和の世界となっている。

1904年からボーデン湖畔のガイエンホーフェンに住み、1912年からはスイスのベルンに移った[5]。第一次大戦中にはドイツの捕虜救援機関やベルンにあるドイツ人捕虜救援局(Pro Captivis)で働いた

1919年の『デミアン』執筆前後から作風は一変する。この頃、第一次大戦の影響などもあり、ヘッセは深い精神的危機を経験する。ティチーノ州のモンタニョーラという小さな村に落ち着き、カール・グスタフユングの弟子たちの助けを借りながら、精神の回復を遂げる。そのなかで、ヘッセの深い精神世界を描いた作品が、『デミアン』である。それ以降の作品には、現代文明への強烈な批判と洞察、精神的な問題点などが多く描かれており、ヘッセをドイツ文学を代表する作家に押し上げた。

1924年、ヘッセは、ルート・ヴェンガーという女性と結婚したが、3年後に離婚した。同年スイスに帰化した[5]。また、1931年には、アシュケナジムユダヤ人のニノン・ドルビン(旧姓アウスレンダー)(英語版)という女性と結婚する。なお、ヘッセとニノンは、長年の間、文通をしていたそうである。

平和主義を唱えていたヘッセの作品は、ナチス政権から「時代に好ましくない」というレッテルを貼られて、ドイツ国内で紙の割り当てを禁止された。

1946年、ヘッセは、ノーベル文学賞ゲーテ賞を受賞する。翌47年には生まれ故郷のカルフ市の名誉市民となる。同年、アンドレ・ジッドの訪問を受ける。1962年、ヘッセは43年間を過ごしたモンタニョーラの自宅で死去し、サン・アッボンディオ教会に葬られる[6]。享年85。自分が生まれたカルフと2番目の妻と暮らしたボーデン湖畔のガイエンホーフェン、そして3番目の妻ニノンと長年住んだアルプス南麓の村モンタニョーラに、その業績を記念し作られたヘッセ博物館がある。