衣477-2田中角栄先生は新潟県出身!

衣477-2田中角栄先生は新潟県出身!

ウィキペディアより↓

生涯

[編集]

生誕

[編集]

1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[6]。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[7]。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[8][注釈 3]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田尋常高等小学校[9](現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[10]。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ[11]

なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒(1936年卒[12])と公称することが多かった[13]。後に中央工学校の五代目校長に就任している[14]。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが[13]、専門学校を含める「専修学校」という学校制度は1976年(昭和51年)に創設されたため[15]、彼が在学当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。

二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた[16]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[17]

上京

[編集]

1934年昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[18][19]。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った[20][19]

夜間部在学中に、保険業界専門誌『保険評論』を発行する小山哲四郎書生になったり、輸入専門の貿易商「高砂商会」の配送員といった職にも就いたりした[21][19]

この頃になって、父親の事業が波に乗ってきたことで、大学に行く金を出してもいいと言ってきた[19]。そのため、一時は海軍兵学校入校を目指し、理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」英語系の正則英語学校に掛け持ちしたり、商業系「錦城商業学校」には4年次に編入で入学など複数の学校に通った[22]。しかし、母が病で倒れたの報を受けて、海軍よりも稼げる実業系に志望を変えた。当時既に設立していた共栄建築事務所では海軍大尉の5倍を稼いでいた[23][19]。通っていた学籍は放校となっている。

中央工学校卒業後

[編集]

1936年昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し[12]、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[23]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[23]。このころ、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)[24] にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。

 

1938年昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役たる騎兵として陸軍騎兵第24連隊への入営が通知される[25]1939年昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[26]。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む[27]。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[28]1940年昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[29]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

日本原子力学会誌↓田中角栄さんと言えば、原子力発電所を思ったりしまして、でも秘書の人がアラビア石油の社長になったの?!↓