衣495-2聖徳太子49歳で亡くなり、643年聖徳太子の一族、滅ぼされる。
仏と仏の教えと僧をとくにうやまいなさい
として
607年小野妹子をはじめ500人におよぶ遣隋使を派遣
隋の都、大興(長安)
日出づる処の天子
書を
日没する処の天子にいたす
つつがなきや
(隋の王様、煬帝(ようだい)のいかりをかったが、このころ朝鮮半島の高句麗との戦いに苦しんでいた煬帝は、日本の留学生をうけいれ、使節をおくる。)
法華経、維魔経(ゆいまきょう)などの経典の解釈書を書き、仏教を深く信仰。
622年49歳で亡くなる。
608年 小野妹子がふたたび遣隋使として隋(中国)に派遣される。
聖徳太子は、小野妹子とともに日本をおとずれた使節裴世清(はいせいせい)を手厚くもてなす。
(あれっ?小野妹子は隋の人のように読めるけど、↑、小野妹子は日本から隋に行って帰るときに裴世清さんを連れてきたという意味ですよね!
裴世清が隋に帰る時、ふたたび小野妹子らに命じて、第二回遣隋使を派遣、
高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みんぶちのしょうあん)などあわせて8人の留学生や学問僧を同行させた。
かれらは隋から唐の時代にかけて、20年から30年の長い留学生活をおくり、すすんだ政治や文化を学んで帰国し、のちに大化の改新で力を尽くすことになる。
聖徳太子の死後、政治を独占した蘇我馬子が死ぬと、子の蝦夷が大臣となったが、一族内を十分取りまとめることができなかった。
推古天皇が死んだあと、だれを天皇にするかという問題が起こった時、一族内部で対立し、蝦夷は聖徳太子の子の山背大兄王子(やましろのおおえのおうじ)をしりぞけて、舒明(じょめい)天皇をたてるのであった。
7世紀のはじめころにきずかれた奈良県明日香村の石舞台(いしぶだい)古墳は、馬子の墓と考えられている。
蘇我蝦夷にかわって、子の入鹿があとをつぐと権力者の争いが増した。
その犠牲者となったのが、山背大兄王であった。
入鹿が斑鳩の宮(いかるがのみや)を焼き討ちにさせたため、皇子(おうじ)らはいったんは山中ににげたが、最後は斑鳩寺(いかるがでら)で一族が自殺をして、聖徳太子一族はほろびた。