衣495-4「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
正岡子規さんの
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
を思い出しました。
結核でお亡くなりになり、病床六尺という日記があったと思います。
1895年5月、子規は連隊付き記者として日清戦争に従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷松山に戻り、松山中学の教員として赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。漱石は2階、子規は1階に棲み、子規は柳原極堂ら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。
子規の随筆「くだもの」(『ホトトギス』1901年4月号掲載)によれば、このとき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿とを配合した作品がないということに気付き、新しい配合を見つけたと喜んだという[3]。そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句を続けて作った[4]。もともと子規は柿が大好物で、学生時代には樽柿(酒樽に詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常であったという[5]。1897年には「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っている[6]。
さらに「くだもの」では、奈良の宿先で下女の持ってきた御所柿を食べているとき、折から初夜を告げる東大寺の釣鐘の音が響いたことを記している[3]。しかしこのときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた法隆寺に柿を配した。ただし子規が法隆寺を参詣した当日は雨天であったため、この句は実際の出来事を詠んだものではなく、法隆寺に関するいわばフィクションの句であると考えられる[7]。なお当時の子規の病状などから考えて、実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意見もある[8]。
また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という、形のよく似た句が掲載されていた。坪内稔典は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している[9]。