衣566二階幹事長は中川昭一さんみたいに呂律が回らない感じ!?
昨日、NHKのニュースで二階さん外しのお話があっていたような?
少ししか見てないけど、二階さんのキャラが、なんとなく憎めないというか?
それでウィキペディア読んでたら、すごく長いんですけど
なんだか紆余曲折もすごい
政治は難しくてよくわからないので
厄除けおまじないの言葉を唱えて
南無7年豊作7年飢饉
ネブカドネザルコ歯ーマン
セカイタイセン放射能電磁波接着剤
二階さんのウィキペディアより
日中関係
東シナ海ガス田の試掘中止[編集]
東シナ海日中中間線でのガス田開発問題では、外務大臣麻生太郎が中華人民共和国によるガス田開発強行に断固対応する姿勢を示すと、この「日本の対応に“こそ”問題がある」「強硬に対応するなら勝手にやればいい」と述べた。当時の経済産業大臣中川昭一は帝国石油に東シナ海ガス田の試掘許可を下ろしたが、後任として二階が経済産業大臣になると試掘は中止された。
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麻生内閣
翌年2月、中川はG7の財務大臣・中央銀行総裁会議出席のためにイタリア・ローマを訪れたが、この会議の後の記者会見における、呂律が回っていない、酩酊しているかのような姿が注目された。この様子は各メディアで大きく取り上げられ、猛批判を浴びることとなった中川は釈明を行ったが、3日後には大臣職を辞すこととなった(詳細は後述)。
議員落選[編集]
大臣辞職から約半年後の2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙が行われ、中川は現職選挙区であった北海道11区から再選を目指して立候補した。中川は謝罪回りに奔走するとともに、断酒宣言を行い、麻生や安倍らも応援のために選挙区入りし、民主党の農業政策や日本国旗への侮辱などを批判した。しかし、民主党の石川知裕(翌2010年1月に政治資金規正法違反で逮捕)に敗れ、比例北海道ブロックにおいて惜敗率3位に留まり、比例復活もならず落選した。同選挙では民主党が大勝して政権交代を実現、落選後の会見で中川は、「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい。」と述べた。
翌月中川は、自身のウェブサイトで、「今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と記したものの[14]、健康は優れず、腰痛や風邪に悩まされるとともに、不眠症のため睡眠薬を服用する状況であったという。
急死[編集]
同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている[1]。56歳だった。死因について、その後遺族は弔問客に急性心筋梗塞と説明していたとされるが[15]、実際の死因は行政解剖によって循環器系の持病の可能性が指摘されたものの特定には至らず、病理検査の結果待ちとなった[16][17]。同月27日、新たに発足した鳩山由紀夫内閣の閣議において、中川に対する正三位および旭日大綬章の追贈を決定したが、その授与は同年10月3日付とされた[18]。
なお、中川の実父である中川一郎は一歳年上であった57歳時に自殺によって急死している。中川の周囲からは遺書は発見されず、また他殺の可能性は否定されている[16]。
『産経新聞』[19]と『十勝毎日新聞』[20]は特集記事を組み、中川の死を悼んだ。法名は「青邦院釋昭尊」。郁子夫人と長女が「清い政治を貫いた」との意味を込めて命名、鎌倉の高僧の承諾を受けた。郁子夫人は命名にあたり、 当時TBS『報道特集』の統括ディレクターとして衆議院選挙活動中の中川の取材をしていた山口敬之に依頼して、中川と親交のあった人物に戒名の候補となる漢字を考えてもらった[21]。通夜と告別式は2009年(平成21年)10月8日・9日に東京都港区元麻布の麻布山善福寺にて自民党と中川家の合同葬として執り行われ、元首相・安倍晋三、前首相・麻生太郎、当時の首相・鳩山由紀夫等多くの政界関係者も参列した。
告別式では、自民党総裁・谷垣禎一[注 8]が弔辞を述べた[22]。続いて中川が所属していた志帥会(伊吹派)会長・伊吹文明の弔辞
そして、友人代表・安倍晋三の弔辞と続く。「今日も、いつも通り“昭一さん”と呼ばせて頂きます」と始まり、
同16日には、北海道帯広市の北海道ホテルにおいて「哀惜の会」が開催され[24]、盟友であった麻生太郎が弔辞を述べた[25]。
昭ちゃん。まさかあなたの弔辞を13歳も年上の私が読むことになろうとは。(中略)「政治家我が身無念と思えども、国の為なら本懐なり」。貴方にこの言葉を贈りたい。(中略)我々は、中川先生の遺志を継ぐ義務と責任がある。「死せる中川生ける保守を走らす」。これが貴方が最も望んでいることだろう。残された我々は、歯を食いしばって頑張る。— 麻生太郎
死後[編集]
さらに、憲政記念館では追悼集会が行われ[26]、約3000名が出席したほか[27]、四十九日の法要には親族、関係者など50人以上が集まった[28][29]。
四十九日法要の忌が明けた同年11月28日、後援会組織「十勝連合後援会」が解散を決定、他の地区後援会も順次解散・縮小することとなった[30]。同年末、中川のウェブサイトには、支持者に対する感謝の言葉が郁子(ゆうこ)夫人の署名で掲載されたが[31]、2010年(平成22年)1月に、同ウェブサイトから発表された『故 中川昭一先生カレンダー2010[32]』には、日本全国から大量の注文が殺到し[33]、完売の後[34]、追加受付が行われるほどとなった[注 9]。
中川の死から3年後、2012年に行われた第46回衆議院議員総選挙で中川の妻・郁子が北海道11区から自民党候補で出馬。新党大地に鞍替えしていた石川知裕を破り当選した。
中川昭一つんのご冥福をお祈りします。