衣727-1 レムさん、84才で亡くなられる、

衣727-1 レムさん、84才で亡くなられる、

虚数」読み始めたら

少し聖書批判みたいな読めたので

大丈夫かなあとウィキペディアみてみると

2006年に84才でボーランドクラクフで無くなられているようです、

そんなに長生きではありませんが

芸術家にあるような短命でもありませんでした、

ウィキペディアの経歴より↓

1921年ポーランドのルヴフ(現ウクライナリヴィウ)に[2]生まれる。

(昔ボーランドで今はウクライナ?地図でみてみると

地図のさくいんで見ると↓

北極海を中心の図みたいな中にありました、

↓では見えませんが日本も入ってます、

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↓こっちの方が見やすいしクラクフも見れます

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医師である父サムエルはユダヤ系、母サビーナはカトリック系であるが、レムはカトリック教徒として育てられる(のちに長じて無神論者になる)。家庭は裕福で、少年時代はフランス人女性の家庭教師からフランス語を学んでいた。ギムナジウム時代に知能指数が180であることが分かり、当時の南ポーランドでは最も頭のいい子供だったという。1940年にルヴフ医科大学に入学し生物学を学ぶ傍ら、数学や、思想・哲学・サイバネティクスの研究も行う。またH.G.ウェルズやO.ステープルドンなどを読んでSFにも関心を持った。ルヴフがナチス・ドイツに占領された期間は自動車工、溶接工として働いていたが、サボタージュや武器弾薬を盗んでレジスタンスに渡したりしたため、解放まで偽の身分で暮らさなくてはならなくなった。また家族も身分証を偽装してゲットー入りを免れていた。

1946年、ルヴフがソ連に割譲されると、一家は財産を没収されてクラクフに移住、ヤギェウォ大学で医学を学ぶ。1946年からは雑誌に詩や短編小説を発表し、小説「火星から来た男」が雑誌への初掲載だった。1948年にヤギェウォ大学を卒業するが、ルイセンコ事件により医学界に嫌気がさして、大学附属の科学研究院に勤め、月刊誌「科学生活」の科学顧問として科学の方法論などに関する論文を発表する。この年、長編小説『失われざる時』を執筆、これは現代小説で3部作のうち第2、3部は社会主義リアリズム作品となっているが、第1部がその枠から外れていたために出版できなかった。

1951年、『金星応答なし』が高い評価を受けて、専業作家となった。この時期の作品は社会主義リアリズム影響下にあり、レム自身その価値を否定している。また同年執筆した『マゼラン星雲』は、当時「サイバネティックス」が「資本主義のエセ科学」とされていたために「メカニオリステックス」という造語を使ったが、見破られて1955年まで出版できなかった[3]。1953年医学生だったバルバラ・レシニャクと結婚。スターリン死去による雪解けとともに、レムも社会主義リアリズムの制約から離れて執筆できるようになり、『失われざる時』も1955年に出版された[4]。1955年に金十字功労賞受賞。1957年、クラクフ文学賞受賞。1959年、ポーランド復興十字勲章受章。1965年、ポーランド文化芸術大臣賞第二席。1959年から1964年に書かれた『エデン』『ソラリスの陽のもとに』『砂漠の惑星』は後にファーストコンタクト三部作と呼ばれ、異星人とのコミュニケーション不可能性がテーマとなっている。