衣107-1間違えました、1989年は平成1年、昭和64年目でした!

衣107-1間違えました、1989年は平成1年、昭和64年目でした!

 

総理大臣は

6月3日に

竹下登さんから宇野宗佑さんへ変わられて、

69日されて8月10日海部俊樹さんへ

 

宇野宗佑 ウィキペディアより↓

宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。

 

琵琶湖の

 

滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長自由民主党総裁(第13代)などを歴任。

青少年期編集
1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に父の宇野長司と母の民子の間に長男として生まれる。

実家は造り酒屋の荒長(あらちょう)。宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父の正蔵は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父の宇野豊蔵は、実教出版の名誉会長だった。

政治家のウィキペディアは長いので、適当に抜粋↓

昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。八幡商業彦根高商、神戸商大出身の宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった[7]。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。

1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから宇野は2年間ソ連に抑留された。

昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪の廣瀬千代と結婚[9]。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を北野天満宮に祈願していたことからだった。宇野家には嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った[10]。

元の名前なら宇野千代ですね!

科学技術庁長官(福田赳夫内閣)編集
1976年(昭和51年)、福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任。

科学技術庁長官として日米原子力交渉を担当。核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使ジェラルド・スミス(英語版)らと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野のことを「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した[21]。

初めは国内の他のマスコミは無視したが[注釈 3]が、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントン・ポスト)などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。一部マスコミからは宇野ピンクザウルス総理と揶揄された。[29]。