衣862-3-2松岡利勝農水大臣

衣862-3-2松岡利勝農水大臣

ウィキペディアより

松岡 利勝(まつおか としかつ、1945年2月25日 - 2007年5月28日)は、日本の農水官僚、政治家。農林水産大臣(第42代)、衆議院議員(6期、自由民主党)を歴任。

 

戦前・戦中の旧憲法下も含め、日本の内閣制度発足以後では2人目(日本国憲法下では初)の現職閣僚として自殺により死去した人物である[注 2]。

 

来歴・人物編集
生い立ち編集
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)2月25日、熊本県阿蘇町(現阿蘇市)に貧困にあった農家の長男として誕生した[1]。

父は日中戦争支那事変)中、満州(現在の中国東北部)で日本軍の憲兵を務めていた。日本に帰国してからは定職を持たず林業ブローカーのような仕事で糊口を凌ぎ、時には飲酒で泥酔して妻(松岡の母親)に手を上げることもあったという[1](家庭内暴力)。父は非常に厳格な人物で、自身の気に入らないことがあると感情的になり怒鳴り散らすなど気性の荒い性格もあり、周囲から怖れられたという[1]。

学生時代編集
中学卒業後、熊本県立済々黌高等学校に進学し、空手部に入部[1]。親元を離れて下宿生活を送る[1]。高校2年生の時の修学旅行で東京都を訪れた際に、単身で赤尾敏大日本愛国党元総裁)を訪問し、活動への参加を志願している[1]。結果は拒絶されたものの、「保守思想への傾倒」は松岡にとって大きな転機になった[1]。その後一時、防衛大学校を目指すが失敗し、2浪ののち鳥取大学農学部林学科に進学する[1]。

農林水産省勤務時代編集
国家公務員採用上級甲種試験に林学区分で最終合格[2]、林学技官として官僚人生のスタートを切り、政治の世界への足掛かりを掴んでいく[3]。

大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁(当時)地方振興局山村豪雪地帯振興課長補佐などを務めた。1988年(昭和63年)、林野庁林政部林政課広報官を最後に退官し、地元熊本に帰郷した。

 

政治家として編集
1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で立候補。当初は泡沫候補と見られていたが、北口博、松野頼三らを下し最下位ながらも初当選、以降連続6回当選(当選同期に岡田克也佐田玄一郎亀井久興森英介福田康夫石原伸晃河村建夫小林興起塩谷立古屋圭司細田博之小坂憲次・山本拓・赤城徳彦簗瀬進山本有二など)。議員一期目に、三塚派の先輩である小泉純一郎石原慎太郎に同調して小選挙区導入に猛反対し、同じ三塚派所属の一年生議員らと共に党中枢と敵対した。他にもコメの輸入自由化に反対して国会前で座り込みをしたり、1994年(平成6年)11月の熊本市長選挙で魚住汎英と乱闘を起こすなど、武闘派として知られるようになる一方で、選挙で対立候補を支援した建設会社に対して、その後公共事業の発注を行わせないようにするなどの一面もあった

(↑これ、違法じゃないの?)

 

1995年(平成7年)8月8日、村山改造内閣で農林水産政務次官(翌年1月11日まで)、1999年(平成11年)10月29日、衆議院農林水産委員長(翌年6月2日まで)、2000年(平成12年)12月6日、第2次森改造内閣で農林水産総括政務次官となる。2001年(平成13年)1月6日、初代農林水産副大臣となり、WTO交渉等に精力的に取り組む(同年4月26日まで)。

党内では、安倍晋太郎派→三塚博派→亀井グループを経て1998年(平成10年)に江藤・亀井派結成に参加していた。当初は小泉改革に反対する立場だったが、衆議院予算委員会理事、衆議院郵政民営化に関する特別委員会理事を経て、小泉を積極的に支持する姿勢に転換、郵政国会を機に長年仕えてきた亀井静香平沼赳夫らと事実上訣別した。同年の通常国会では、2003年(平成15年)に解党された自由党政党交付金を同党の党首を務めていた小沢一郎が着服したとされる疑惑を追及した。また、同年8月に郵政関連法案が参議院で否決されたことにより当時の小泉首相衆議院の解散を決断するが、同日に小泉と改革への決意を首相官邸で語っていた人物は

松岡である。他方、これまでの主張であったコメの輸入自由化FTAへの頑強なまでの反対姿勢を一転させたことは、従来の支持基盤だった農家からの激しい反発を招いた。

2006年(平成18年)9月26日、松岡は第1次安倍内閣農林水産大臣に就任した。松岡は早い段階で安倍晋三の支持を表明し、松岡が地盤とする熊本県での安倍晋三の党員得票率は75%を記録した。しかしその後、松岡の事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上し大きな批判を受け、マスコミは連日のように松岡の不祥事を報道した。

自殺、死去編集
2007年(平成19年)5月28日、松岡は衆議院議員宿舎(新赤坂宿舎)で首を吊っているところを警護官らに発見され、警視庁本部指示の下、救急車で高度救急医療に対応している慶應義塾大学病院に運ばれたが、すでに心肺停止状態であり死亡が確認された。満62歳没。

戦前・戦中の旧憲法下も含め、日本の内閣制度発足以後では2人目の現職国務大臣の自殺であり、日本国憲法下の日本では初めてのことであった[注 2]。