「バルト海のほとりの人びと 心の交流をもとめて」小野寺百合子 新評論 借りてみた。
まえがき
私はダイヤモンド婚式をすませてから夫を見送ったが、それからちょうど10年になる。
から始まる本です。
ストックホルムも出てきて、PCBがストックホルム条約だなとか思います。
残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約 - Wikipedia
「バルト海のほとりの人びと 心の交流をもとめて」小野寺百合子 新評論
12ページ
一 ヘルマン・トロチック
トロチック家に伝わる物語
東京大学とストックホルム大学の学術共同研究(1979年発足)1987年の共同シンポジウムでも取り上げられ、1988年ストックホルム大学の日韓学部の学部長、趙承福氏が発表した「伝統的思想と観念的機会」の論文中にもある。
ヘルマン・トロチックの祖父、ストックホルム市長の名門
でも、どうしても船乗りになりたくて商船学校を卒業して極東通いのイギリス船「イングランド号」の乗組員になって極東へ向けてスエーデンの海軍基地カールスクルーナを1858年出発、
長崎上陸1859年 ペリーの黒船来航の6年後
日本が200年の鎖国を解いて長崎を外国船に開港したばかりの時、
長崎に魅せられて長崎の貿易商社「アーノルド・グルーム」に勤めるがまもなく「グラバー商会」に移る。
日本が尊王攘夷の時で、長州、薩摩、佐賀などの大藩はグラバーなどの外国商社から武器、弾薬、軍艦まで購入した。
長州藩の血気盛んな若者たちは長崎まで出かけてグラバー商会の外国人社員と仲良くなり、西欧の文化、学問、哲学など語り合った。
どうしてもヨーロッパに渡って勉強したいと切望する二人、
伊藤俊輔(のちの博文)井上聞多(のちの馨)密航、見つかれば死罪
でも成功