衣697西城秀樹さん「あきらめない」

衣697西城秀樹さん「あきらめない」

今、読んでる途中で脳梗塞問題考えてます、

 

奥さまのお話がネットにありました↓

 

西城秀樹さん 闘病を支えた妻が語る家族の力

 

昨年5月に亡くなった、歌手・西城秀樹さん(享年63)。最初の脳梗塞から17年。公にされてこなかった壮絶な闘病があった。
ステージをあきらめず病魔と闘う日々を、いちばん近くでサポートし続けたの妻・木本美紀さん。著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を昨年11月に刊行した木本さんに、病気との付き合い方、家族による家庭でのケアについてなど話を聞いた。

木本美紀(きもと・みき)

1972年、大阪府生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職。2001年に退職し、歌手・西城秀樹と結婚。3児の母。

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昨年5月に亡くなった、歌手・西城秀樹さん(享年63)。最初の脳梗塞から17年。公にされてこなかった壮絶な闘病があった。
ステージをあきらめず病魔と闘う日々を、いちばん近くでサポートし続けたの妻・木本美紀さん。著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を昨年11月に刊行した木本さんに、病気との付き合い方、家族による家庭でのケアについてなど話を聞いた。

 

木本美紀(きもと・みき)

1972年、大阪府生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職。2001年に退職し、歌手・西城秀樹と結婚。3児の母。
——本を出された理由からお聞かせいただけますか。

ファンの方々への感謝と、いま闘病されている患者さんやその家族の方々に、勇気みたいなものを届けられたらという思いが強くありました。
秀樹さんの場合、(病状を)公にできなかった部分もありまして、脳梗塞が2回というふうに発表していました。いろんな葛藤もありましたが、実際の闘病を正直にお伝えすることで、秀樹さんは大変だったけどあきらめずに頑張っていたんだと、いま闘病されている方々が思ってくださったらと。そういう思いで書かせていただきました。

 

——17年間という長期間にわたる闘病でしたが、家庭ではどのようなサポートをしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合は糖尿病と脳梗塞(こうそく)でしたので、ストレスも原因の一つになります。仕事上、家から一歩出ると視線を感じる毎日なので、やはりストレスやプレッシャーが多い職業だったと思うんですね。家の中の細かいことではあまり負担をかけることのないようにしておりました。なるべくうれしいニュースや出来事だけを伝えて、子どもたちの些細(ささい)なことや大変なことは伝えずに、家ではゆっくりくつろげる環境を作るように努めておりました。

 

——ストレスの解消は、西城さんはどのようにしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合はバリアンティーク、バリの骨董品(こっとうひん)がすごく好きで。子どもたちが生まれてからは危ないものもありずいぶん縮小してもらいましたが、結婚当初は本当に美術館みたいに飾っていました。自分の好きなものを飾って眺めたりとか、そういう時間がすごく落ち着く時間だったようです。六本木に絵を見に行くと言って出かけたり、一目ぼれしたカーペットを購入して届くのをワクワクして待っていたり。本当にアートが好きなんだなって。そのような趣味の時間だったり、自分の気を遣わない友達に会う時間というのもリフレッシュできたのではと思います。

 

——日常生活でも、食事などさまざま気を遣われていたのでは。

食事はお野菜を極力、サプリとかではなく食事として取れるようにしていました。 生野菜のサラダがあまり好きではなくて、ナムルにしたり味をつけたり、蒸したりすることが多かったです。血圧はそれほど高くはなかったのですが、彼の場合は糖尿病もあったので、血糖も気をつけていました。朝起きたとき、食事の前後、寝る前と1日8回血糖値を測るんですね。それを手帳にメモしてグラフにして、定期検診の時にお医者様に見ていただいていました。チクッと針を刺して血を出して、それをセンサーで測るんですが、毎日のことなので指の先が硬くなってきちゃうんです。だから朝が人さし指だったらお昼は中指というように、ずらしながら。でもやっぱり皮膚が硬くなってしまっていましたね。インスリンの打ちすぎも低血糖になるので気をつけないといけなくて、秀樹さんと外出する時は、ブドウ糖やチョコレート、清涼飲料水など、すぐに血糖が上がるものを携帯していました。

 

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ステージをあきらめず病魔と闘う日々を、いちばん近くでサポートし続けたの妻・木本美紀さん。著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を昨年11月に刊行した木本さんに、病気との付き合い方、家族による家庭でのケアについてなど話を聞いた。

 

木本美紀(きもと・みき)

1972年、大阪府生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職。2001年に退職し、歌手・西城秀樹と結婚。3児の母。
——本を出された理由からお聞かせいただけますか。

ファンの方々への感謝と、いま闘病されている患者さんやその家族の方々に、勇気みたいなものを届けられたらという思いが強くありました。
秀樹さんの場合、(病状を)公にできなかった部分もありまして、脳梗塞が2回というふうに発表していました。いろんな葛藤もありましたが、実際の闘病を正直にお伝えすることで、秀樹さんは大変だったけどあきらめずに頑張っていたんだと、いま闘病されている方々が思ってくださったらと。そういう思いで書かせていただきました。

——17年間という長期間にわたる闘病でしたが、家庭ではどのようなサポートをしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合は糖尿病と脳梗塞(こうそく)でしたので、ストレスも原因の一つになります。仕事上、家から一歩出ると視線を感じる毎日なので、やはりストレスやプレッシャーが多い職業だったと思うんですね。家の中の細かいことではあまり負担をかけることのないようにしておりました。なるべくうれしいニュースや出来事だけを伝えて、子どもたちの些細(ささい)なことや大変なことは伝えずに、家ではゆっくりくつろげる環境を作るように努めておりました。

——ストレスの解消は、西城さんはどのようにしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合はバリアンティーク、バリの骨董品(こっとうひん)がすごく好きで。子どもたちが生まれてからは危ないものもありずいぶん縮小してもらいましたが、結婚当初は本当に美術館みたいに飾っていました。自分の好きなものを飾って眺めたりとか、そういう時間がすごく落ち着く時間だったようです。六本木に絵を見に行くと言って出かけたり、一目ぼれしたカーペットを購入して届くのをワクワクして待っていたり。本当にアートが好きなんだなって。そのような趣味の時間だったり、自分の気を遣わない友達に会う時間というのもリフレッシュできたのではと思います。

——日常生活でも、食事などさまざま気を遣われていたのでは。

食事はお野菜を極力、サプリとかではなく食事として取れるようにしていました。 生野菜のサラダがあまり好きではなくて、ナムルにしたり味をつけたり、蒸したりすることが多かったです。血圧はそれほど高くはなかったのですが、彼の場合は糖尿病もあったので、血糖も気をつけていました。朝起きたとき、食事の前後、寝る前と1日8回血糖値を測るんですね。それを手帳にメモしてグラフにして、定期検診の時にお医者様に見ていただいていました。チクッと針を刺して血を出して、それをセンサーで測るんですが、毎日のことなので指の先が硬くなってきちゃうんです。だから朝が人さし指だったらお昼は中指というように、ずらしながら。でもやっぱり皮膚が硬くなってしまっていましたね。インスリンの打ちすぎも低血糖になるので気をつけないといけなくて、秀樹さんと外出する時は、ブドウ糖やチョコレート、清涼飲料水など、すぐに血糖が上がるものを携帯していました。

 

——タバコや生活習慣に関してはいかがでしょう。

秀樹さんは2003年の最初に公になった脳梗塞のときにタバコはきっぱりやめていますが、それまでは本当にチェーンスモーカーでした。結婚したのが46歳と遅かったので、それまでは不摂生だったと聞いています。朝まで飲んでそのままラジオ局に行ったり、前のマネジャーさんが言うには、夜の12時前に仕事から解放されたことはないと。結婚して子どもが生まれてからは、朝も比較的早く、子どもたちのペースに合わせる生活になったので、マネジャーさんも早い時間に帰れるようになったと喜んでいました。本人の中で、自分の体を大事にしなきゃと思ったのだと思います。

 

——ご結婚されてからはかなり健康的な生活だったようにうかがいますが、40代半ばまでの不摂生がだいぶ蓄積されていたのでしょうか。

そうだったのではないでしょうか。また、脳神経の先生がおっしゃるには、脳の血管の膜がとても薄いらしくて。脳梗塞も心配だけど脳出血の心配もあったそうです。若い頃の不摂生がたたってしまったのか、元々なのかはわからないのですが。

——メンタル面でのケアにも、苦労されることが多かったでしょうか。

多系統萎縮症という脳が萎縮してしまう病気が出てきた頃ぐらいからでしょうか。時折、不安感を覚えるようなこともありましたね。睡眠導入剤とか、飲まなくても眠れているのに不安で飲みたがったりすることも多々ありました。それですごくお薬の量が増えちゃった時もあって。常用するような飲み方はよくないと思って、そういう時は「とりあえず半分にしてみようか」って。飲まないけど置いておくということもありましたが、だんだん飲まなくても寝られるように。

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昨年5月に亡くなった、歌手・西城秀樹さん(享年63)。最初の脳梗塞から17年。公にされてこなかった壮絶な闘病があった。
ステージをあきらめず病魔と闘う日々を、いちばん近くでサポートし続けたの妻・木本美紀さん。著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を昨年11月に刊行した木本さんに、病気との付き合い方、家族による家庭でのケアについてなど話を聞いた。

 

木本美紀(きもと・みき)

1972年、大阪府生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職。2001年に退職し、歌手・西城秀樹と結婚。3児の母。
——本を出された理由からお聞かせいただけますか。

ファンの方々への感謝と、いま闘病されている患者さんやその家族の方々に、勇気みたいなものを届けられたらという思いが強くありました。
秀樹さんの場合、(病状を)公にできなかった部分もありまして、脳梗塞が2回というふうに発表していました。いろんな葛藤もありましたが、実際の闘病を正直にお伝えすることで、秀樹さんは大変だったけどあきらめずに頑張っていたんだと、いま闘病されている方々が思ってくださったらと。そういう思いで書かせていただきました。

——17年間という長期間にわたる闘病でしたが、家庭ではどのようなサポートをしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合は糖尿病と脳梗塞(こうそく)でしたので、ストレスも原因の一つになります。仕事上、家から一歩出ると視線を感じる毎日なので、やはりストレスやプレッシャーが多い職業だったと思うんですね。家の中の細かいことではあまり負担をかけることのないようにしておりました。なるべくうれしいニュースや出来事だけを伝えて、子どもたちの些細(ささい)なことや大変なことは伝えずに、家ではゆっくりくつろげる環境を作るように努めておりました。

——ストレスの解消は、西城さんはどのようにしていらっしゃったのでしょうか。

秀樹さんの場合はバリアンティーク、バリの骨董品(こっとうひん)がすごく好きで。子どもたちが生まれてからは危ないものもありずいぶん縮小してもらいましたが、結婚当初は本当に美術館みたいに飾っていました。自分の好きなものを飾って眺めたりとか、そういう時間がすごく落ち着く時間だったようです。六本木に絵を見に行くと言って出かけたり、一目ぼれしたカーペットを購入して届くのをワクワクして待っていたり。本当にアートが好きなんだなって。そのような趣味の時間だったり、自分の気を遣わない友達に会う時間というのもリフレッシュできたのではと思います。

——日常生活でも、食事などさまざま気を遣われていたのでは。

食事はお野菜を極力、サプリとかではなく食事として取れるようにしていました。 生野菜のサラダがあまり好きではなくて、ナムルにしたり味をつけたり、蒸したりすることが多かったです。血圧はそれほど高くはなかったのですが、彼の場合は糖尿病もあったので、血糖も気をつけていました。朝起きたとき、食事の前後、寝る前と1日8回血糖値を測るんですね。それを手帳にメモしてグラフにして、定期検診の時にお医者様に見ていただいていました。チクッと針を刺して血を出して、それをセンサーで測るんですが、毎日のことなので指の先が硬くなってきちゃうんです。だから朝が人さし指だったらお昼は中指というように、ずらしながら。でもやっぱり皮膚が硬くなってしまっていましたね。インスリンの打ちすぎも低血糖になるので気をつけないといけなくて、秀樹さんと外出する時は、ブドウ糖やチョコレート、清涼飲料水など、すぐに血糖が上がるものを携帯していました。

 

——タバコや生活習慣に関してはいかがでしょう。

秀樹さんは2003年の最初に公になった脳梗塞のときにタバコはきっぱりやめていますが、それまでは本当にチェーンスモーカーでした。結婚したのが46歳と遅かったので、それまでは不摂生だったと聞いています。朝まで飲んでそのままラジオ局に行ったり、前のマネジャーさんが言うには、夜の12時前に仕事から解放されたことはないと。結婚して子どもが生まれてからは、朝も比較的早く、子どもたちのペースに合わせる生活になったので、マネジャーさんも早い時間に帰れるようになったと喜んでいました。本人の中で、自分の体を大事にしなきゃと思ったのだと思います。

——ご結婚されてからはかなり健康的な生活だったようにうかがいますが、40代半ばまでの不摂生がだいぶ蓄積されていたのでしょうか。

そうだったのではないでしょうか。また、脳神経の先生がおっしゃるには、脳の血管の膜がとても薄いらしくて。脳梗塞も心配だけど脳出血の心配もあったそうです。若い頃の不摂生がたたってしまったのか、元々なのかはわからないのですが。

——メンタル面でのケアにも、苦労されることが多かったでしょうか。

多系統萎縮症という脳が萎縮してしまう病気が出てきた頃ぐらいからでしょうか。時折、不安感を覚えるようなこともありましたね。睡眠導入剤とか、飲まなくても眠れているのに不安で飲みたがったりすることも多々ありました。それですごくお薬の量が増えちゃった時もあって。常用するような飲み方はよくないと思って、そういう時は「とりあえず半分にしてみようか」って。飲まないけど置いておくということもありましたが、だんだん飲まなくても寝られるように。

 

——声をかけたり、見守ったり。バランスというか、さじ加減も難しそうです。

病気をしている本人がいちばん辛いと思うので、あれダメこれダメってガミガミしちゃうのではなく、うまく見守るというか、目指す方向に上手に持っていくというか。そこは気をつけていました。
娘が大きくなってからは、娘からお願いすると、うまくいくことが多かったんです。「今日はもう散歩はいいよ」って本人が疲れて横になりたいときも、娘が「ちょっとだけお散歩行こう」って言うと「じゃあ行くか」って。娘ラブで、本当に(笑)。子どもたちが「おはようパパ」って言ったらそれだけでハッピー。子どもたちと映画を見に行ったりもしていましたね。一緒に感動して泣いちゃったりして。

 

——子煩悩だった西城さんの様子が目に浮かぶようです。一方で思春期真っ最中だったお子さんたちのケアについてはどのようなことに気をつけていらっしゃいましたか。

子どもたちは年子で3人なのですが、ママは一人しかいないんですよね。みんなで食卓で話すことももちろんありましたが、塾の送迎の時など、1対1で話せる時間をなるべく持つようにしていました。嫌なことがあったとか、そういうことを本人が周りを気にせずにママになら言えるっていう環境を作るように。十分にできていたかは自信がないのですが。

——奥様の立場としては、健康のことだけ考えれば、引退を考えてもらいたい時もあったのではないですか。

私はいろいろ考えてしまったことはありますが、秀樹さんの口からは一度も引退という言葉は聞きませんでした。それはこちらからは言えないですよね。最後になってしまったのですが、4月のコンサートの時は、ちょうどお誕生日の次の日っていうこともあってステージの上で大きなケーキを用意してもらって。本人はとてもうれしかった様子で持って帰ってきてくれたので、それをみんなで食べながら、今日はどうだった、っていう話を。いつも話してくれるんですけど、その時は本当に興奮して随分遅くまで起きてお話ししてくれました。本当にパワーをもらっているんだなって。ステージに上がらせてもらえることで、秀樹さんは元気をもらっていたのだと思います。

 

——西城さんにとっては、ご家族の存在と同じぐらいお仕事の存在も大きかったのですね。同じような働き盛りの世代に向けて、最後に伝えたいことがあればお願いします。

今は健康志向の方が多いと思うので、検診とかもまめに行かれているとは思うのですが、私自身は正直後回しにしていました。小林麻央さんのニュースを聞いた時には、秀樹さんの方から「ママも乳がん検診行っておいで」って。それで「そうだね」って予約を取って行ったのを覚えております。看病している人間は、つい自分の体のことを後回しにしてしまいがちですが、自分の経験から、少しでも気になることがあったら検査をしておくことが大切だと思います。