衣882被爆者の谷口さんと父
長崎の爆心地から1.8キロで被爆されて、
88歳まで頑張られました、
私の父は心臓の手術をして、もう20年以上経つと思いますが、元気に魚釣りに行ってます、
人間の段階とか次元とかお医者さんとか宗教家の本でありますけど、そんなのがあののかなあと最近思います、
背中の大火傷の写真見れます↓
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E7%A8%9C%E6%9B%84
谷口稜曄(たにぐち すみてる、1929年1月26日 - 2017年8月30日)は、長崎原爆を体験した被爆者のひとり。1929年に福岡県で生まれる。
昭和4年)1月26日、福岡県糟屋郡志賀島村で谷口家の三人目の子供として生まれる。「光が届かない場所を隅々まで照らす」という意味を込めて、稜曄と名付けられた[1]。翌年母が亡くなり、父は一人満州に渡り南満州鉄道(満鉄)に就職。稜曄を含む三人の子供は長崎市の母方の実家に預けられる[3]。
1943年(昭和18年)、淵国民学校(高等科)を卒業し、本博多郵便局で働き始める[2]。
1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市東北郷(現:長崎市住吉町)で被爆[4][5]。原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う[6]。そのまま徒歩で200mほど先の三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難し、機械油で体を拭いてもらうなど簡単な手当てを受け、近くの山へ避難する[7]。2晩過ごした後、道ノ尾駅から救援列車に乗せられ諫早へ赴くも、諌早国民学校の救護所では満足な治療が受けられず、2日後に長与の遠縁の親戚の家に運ばれ静養[8]。9月10日頃、治療のため、勤め先の本博多郵便局近くの新興善国民学校に開設されていた救護病院に運ばれる[9]。
11月、大村市の海軍病院(現在、独立行政法人国立病院機構長崎医療センター)へ移送され、3年7か月後の1949年3月20日に退院する。しかし、その後もたびたび皮膚の移植手術等の治療を受ける。戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに、核兵器廃絶のための活動を続けた。