衣120-2「おまえ、解剖なんて杉田玄白だろ」今さらやることあるのか、問題

衣120-2「おまえ、解剖なんて杉田玄白だろ」今さらやることあるのか、問題

 

「ニホンという病」

P170からの

コラムー養老先生の「解剖学事始」講座から

 

養老孟司先生が東大医学部の大学院に入る時の先輩の言葉

「おまえ、解剖なんて杉田玄白だろ」今さらやることあるのか、というわけらしい、

 

江戸時代の山脇東洋のモットー

「親試実験」、

親しく試みて実際に体験する(実証主義)。

京都亀岡の人

後藤艮山という大先輩に

「自分はどうしても解剖がしたい」

というと

後藤艮山

「解剖は法外」、

官の禁ずるこたは実用でない、できないというわけ。

 

杉田玄白で思い出すのが、

♪お富さん♪

♪エッサオー

源治店(げんやだな)♪

杉田玄白の玄は字は違うけど、読みは「げん」

あれっ?ネット検索すると「玄」でもある!↓

「源氏店」とはどういう意味ですか?
 
げんやだな【玄冶店】

江戸の地名。 日本橋北の横町。 幕府医師の岡本玄冶の屋敷跡で、芝居関係の者が多く住んでいた。

源冶店(げんやだな)とはどういう意味ですか?
 
げんやだな【玄冶店】

幕府医師の岡本玄冶の屋敷跡で、芝居関係の者が多く住んでいた。 歌舞伎狂言「 与話情浮名横櫛 よわなさけうきなのよこぐし 」4幕目の 源氏店 げんじだな 妾宅の場の俗称。

何だか良くわからない?!

兎に角ウィキペディアありました↓

 

「お富さん」(おとみさん)は、春日八郎の歌で1954年8月に発売された歌謡曲である。

 

解説編集
「お富さん」は作詞を山崎正、作曲を渡久地政信が担当し、当初キングレコードのスター歌手であった岡晴夫が歌う予定だったが、岡がキングレコードを辞めてフリー宣言(日本マーキュリーと本数契約を結んでいる)したため、急遽若手の春日に歌わせたところ、リリースから4か月で40万枚、最終的に125万枚を売り上げるセールスとなり、春日の出世作となった[1]。

「お富さん」は当時宴会で歌われていた猥褻なお座敷ソングに代わる、いくらか軽い調子で替え歌のしやすいものを狙って作曲した、と渡久地は述べている[1]。沖縄出身で奄美大島育ちの渡久地は、四分の四拍子のリズムのなかに八分の六拍子をアクセントとして加えたブギウギのリズムを基に、手拍子や軽快なヨナ抜き音階など沖縄音楽・カチャーシーの要素と、チンドン屋のリズムの影響を受けた奄美新民謡の要素を織り込みながら曲を書いた[1]。

作詞の山崎はキングレコードからの復古調のものをという要求に応じて、戦前・戦中の諸芸能の世界では定番だった歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(通称:切られ与三郎)からセリフを大量に取り入れている。ただし、山崎は特に歌舞伎に通じていた訳でもなく、作曲した渡久地に至っては「カブキは嫌いで、見た事もない」と述べている[1]。「粋な黒塀」「見越の松」「他人の花」といった仇っぽい名詞句を何も知らない子供までもが盛んに歌ったが、そのアウトロー的な歌詞は教育上の社会問題となり、NHKが子供が「お富さん」を歌う事の是非を問う討論番組を組むほどだった[1]。冒頭部の「粋な黒塀」は、山崎が若年期に住んでいた高崎市の花街・柳川町の風景から着想を得たものである[2]。その縁から、1954年には柳川町にあった映画館・高崎電気館で春日八郎の歌謡ショーが開催された。

なおこの曲のヒットに便乗しようとビクターレコードは後に『青砥稿花紅彩画』(通称:白浪五人男)を題材にした「弁天小僧」(歌:三浦洸一)という歌をリリースしヒットさせたが、社会現象にまでなった「お富さん」には及ばなかった。

1984年には作詞:伊藤アキラ、作曲:森田公一で続編となる「その後のお富さん」が春日の歌唱で発売されたが、同曲は歌舞伎の要素は一切廃され、お富と与三郎のその後を描いた、すすき野・八代・輪島・横浜のご当地ソングとなっている。

元号が昭和から平成に替わった1989年の大晦日、『第40回NHK紅白歌合戦・第一部(昭和の紅白)』に、春日は通算21回目の紅白出場を果たし「お富さん」を歌唱したが、これが春日の生涯最後の紅白歌合戦出演となった。1991年10月、春日が67歳で亡くなった時の葬儀では、参列者全員でこの「お富さん」を合唱した。この葬儀には竹下登元総理も参列していた。

 

カバー 抜粋

カバー編集
「お富さん」は1970年に青江三奈によってカバーされ、翌1971年には都はるみが「はるみのお富さん」としてカバーした[3]。青江の「お富さん」が都会的なブルース艶歌としてアレンジされたのに対し、「はるみのお富さん」は同じ艶歌ながらチンドン風のアレンジである。

 

また、春日八郎の大ファンである「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉は作中でこの歌を何回も歌っている。