衣635-3-1豊臣秀吉、朝鮮出兵、7万5千人拉致、労働奴隷?!

衣635-3-1豊臣秀吉朝鮮出兵、7万5千人拉致、労働奴隷?!

 

気になって調べてみました。

 

インドの奴隷王朝って何だろう?!

 

その前に

1582年グレゴリー暦つくられる。

ローマ教皇グレゴリウス13世暦をあらためる。

日本では、天正遣欧使節一行、ローマへむかう。

命がけでローマについた4人の少年は、ローマ法王から大歓迎をうける。しかし苦労のすえ8年後に帰国したとき、日本は豊臣秀吉により、キリスト教禁止。

このころの世界

イギリス東インド会社

1588年イギリスのエリザベス1世

スペインの無敵艦隊やぶる。

1600年イギリスのエリザベス1世、貿易会社をひとつにまとめて東インド会社つくる。

東インド会社は商業の利権だけでなく、商船や商館などをまもるため軍事的権利、外国もの条約や同盟をむすぶ権利まであたえられ、小さな国家のような組織となる。

インドに進出、全インドの植民地を支配するようになる。

ウィキペディアより

1592年と1597年

文禄・慶長の役
桃山時代豊臣秀吉の命によって行われた二度に渡る朝鮮半島への侵攻

 

戦争:文禄の役

 

場所:朝鮮半島全域、満州豆満江一帯

 

結果:小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。

(ブリタニカによると、

竜山停戦協定

秀吉は同年6月、明帝の娘を后妃に迎えること、

勘合船復活

朝鮮割譲

7か条を講話条件として決定させたが遵守されなかった。)

 

交戦勢力
 豊臣政権

(↓朝鮮より明、つまり中国!!)

 李氏朝鮮


指導者・指揮官

日本軍

総大将 宇喜多秀家

明軍兵部尚書石星

朝鮮軍(組織)
都体察使
成龍、李元翼

戦力

日本軍
158,700人[1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照)

明軍:
48,000人[2][3]
朝鮮軍
84,500人[4]–192,000人[5][5]
義兵軍:22,400人

損害

日本

少なくとも約21,900人以上[6](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)一説に約50,000人[注 6](大半が病死・餓死。)

中川秀政が戦闘中以外で討死

明、朝鮮

~36,000人[7][8]
鄭撥(朝鮮)、尹興信(朝鮮)、宋象賢(朝鮮)などが戦死

ーーーーーーーーー

 

戦争:慶長の役

 

場所:朝鮮半島三南地方

 

結果:豊臣秀吉死去で日本側の全軍が帰国して終結[9]。講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。(「柳川一件」も参照)

交戦勢力
 豊臣政権

 李氏朝鮮


指導者・指揮官
総大将小早川秀秋一番および二番隊


明軍兵部尚書邢玠(総督)

戦力

日本
141,500人(奴婢を中心とした朝鮮の民も含む)[10]


(諸説あり)明軍:75,000–92,100(三路の戦い時)[11]

損害

日本
不明諸説あり

明、朝鮮
数十万(文禄・慶長両役の総計)[注 7][注 8]
日本に連行された捕虜・奴隷 2万人~10万人以上 [12][13][14][15]

(↓12月8日といえば、日本が戦争始めた日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日です。)

 

なお、文禄元年への改元12月8日グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 10])で表記。( )の年は西暦である。